2012年2月16日木曜日

震災句集

このところ、ツイッターで私のフォローしている俳句系の方々から、長谷川櫂氏のまとめた震災句集に対する意見表明がなされている。そのほとんどが何らかの点でこの句集に反対するものであり、「ほとんどがそうである」、ということは、これはかなりバイアスの掛かった視界、と少なくとも一度は見ておいた方が良い。

多くは既にツイッター上でも語られていることなのだが、書いておきたい。


私はこれを音楽やダンスの世界にずらして見てみるのが良いのではないかと考えている。このことはあまりに大きすぎて、俳句の世界だけで見ていては照らし切れないのではないかと思うからだ。

少し扇情的に書いてみる。もしピアノという楽器を神が造らしめたのであれば、それは演奏家にも子どもにも、あるいは猫にですら等しくひらかれてあるべきで、猫に踏まれたから汚された、と思うかどうかは、その猫に対する愛情の有無によって量られるのだろう。

たとえば小学校の音楽会で子たちが演奏家に遠く及ばない演奏をしたとして、それに感動しないことはないし、感動したとして、演奏家たちの演奏に対するそれとは、文脈が全く異なっている。
ましてや被災した子たちによるものや、あるいは被災した人たちを想って演奏したものであれば、内容の良し悪しに関わらず、その純粋な行為を持って感動をもたらすこともあるだろう。

つまり、震災句集というものは、そういう、評価尺度の違う世界に編まれたものであり、俳句集一般というものがあるのだとすれば、その中の一カテゴリーに過ぎず、その特殊性の下に評価されねばならぬもの、ということだ。
しかもその尺度の中ですら、つまらないもの、下品なもの、あるいは掬い上げるべきもの、さまざまな句が生まれることだろう。これは佳句と言えるものでも無い限り、普段の鑑賞眼をもって供するのはそぐわない。


そういう、普通とは違う、という視点で見てこの句集はどうなのか。

一つに心理療法的な意味があるとするものがある。だが、そういう目的であればわざわざ集として刊行する必要まではない。それは自己から他者へ投げ出せた時点で既に達成されているからだ。具体的にいえば、インターネットの掲示板上で集められたこれらの句は、心理療法的には掲示板に書きこまれ、誰かに読んでもらえた、と認知された時点で役目を終えている。

だから、その文脈で見ればこの句集の刊行は、「震災に於ける心理療法の記録の開示」だとも言える。その記録の開示が世の中に与える影響の功罪というのは心理学などの分野の話であるのでここでは述べないが、中には一時の熱が冷めた将来にむず痒い思いをする人も出てくるかもしれない。(このような療法の必要性は、特にこのような大きな状況の場合、直接被災された方々だけにあるのではない。)


俳句としての中身はさして取り上げることが無い。先に述べたように、句の良し悪しは関係が無いからだ。ただ、あの時、和合亮一氏の詩の礫の最初期のものから受けた衝撃を思えば、同じ俳句を身近におくものとして淋しくもある。船頭役でもある長谷川氏が率先して拙い句を詠んでいるように見えたことも、参加者へ水を向ける以上の意味は見いだせない。もし、そのような句を震災句集の外へ持ち出すとするならば、それはそれで改めて批評すればいいだろうと思う。

しかし重要なことは、少なくとも実物として、目の前に存在する「声」として、被災者の手元へも届く、ということだ。私は未だそれを届けては居ない。被災された方々にとっては、たとえそれがいかような声であろうと、忘れ去られるほどの痛みはもたらさないだろう。内容とは関係なく、その一点だけをもってしても、存在価値はある。

善きものでなくとも意味がある場合がある、と学ぶのはいくつになっても辛い。


震災の大きさによって、ねじ曲がってしまったことは数多ある。考えれば当然のこととも言える楽器についての考え方は、翻って俳句という器をみた時には忘れられがちである。今、自らを俳人と思っている方々の中からこの句集に対して挙がっている声は、その多くは俳句という器への愛情の表れであるとともに、溺愛による弊害とも言えないか。

同じバレエ団だからと言って、ボリショイがおらが町の老齢バレエ団に苦言を呈する必要がないのと同様に、同じ575だからと言って、到達目標も目的も何もかも違うものに目くじらを立てる必要は本来無い。ダンス好きな子たちのダンサーグループも、世界的なバレリーナも、等しく被災地を訪れている。


ピアノはすでに万人のものであるし、それをどのように弾こうが、弾く人が町の演奏家を名乗ろうが、さして構わないのではないか。その演奏への評価も、世界の演奏家のそれに対するようなものは、必要無いのではないか。
ピアノ演奏のプロだと言うのであれば、逆にそういうものへ世辞の一つも言えないといけないのではないか。訪れた市井の音楽教室や文化教室に逸材を見い出す力も必要なのではないか。あるいはピアノを演奏する芸術家だと言うのであれば、つまらない演奏に対するその怒りを自らの演奏にぶつけるべきではないのか。

そういうことが逆に、俳句という言葉の表面ではなく、実質に目を向けさせていくのではないか。

ことここに至っては、この震災句集に対する思索は、「俳句」という言葉の定義そのものへも(単に季がどうこうなどと言うのでなく)、また「俳壇」という語の定義へさえも、影響し始めるのだ。

だからこそ今、身のうちにふつふつと怒りや悲しみを覚えている方々の今後が楽しみになっている。このことは、そういう人たちを、きっとさらなる高みへと向かわせてくれるはずであり、その結果を享受できる幸せもまた私たちのものなのだから。


蛇足だが、誰それがまとめて、とか、あっという間に、などという話はただのやっかみのようなものだ。その発想の根底には資本主義的な競争原理があるのだし、それは風狂の世界にはなじまない。さらに、私は長谷川櫂氏には一度もお目にかかったことはないが、いくつかの理由、切れの考え方の違いその他から、反りが合わない苦手な人だと感じている。だが、俳句は一句が全て。好きな句はそれがたとえ誰のものであれ好きである。長谷川氏の普段の句の中にも気に入りのものが無いわけではない。


私は阪神・淡路大震災で直接被災したわけではなく、知人らも家の全壊程度で済んだのだが、当日現地入りしたこともあり、記憶に残ることがいくつかあった。だがそうした経験を下敷きにした句を作ろうとしたのは2000年代に入ってからで、それは未だに推敲中になっている。ところが東日本大震災のしばらく後、別の一句がふと浮かんでしまった。実に恐ろしいことだが、次の震災を自分の外に得ることによって、自らの体験が客観化されたのだ。

テレビの映像もかなり見たが、津波に対しては実感が湧かないのに対し、気仙沼の火の手には正直恐怖を感じた。そういう点からも、人間というのは決して清らかなばかりの生き物では無いのだということが思い出され、それが、この震災句集についての一文を書くにも影響を与えている。


長くなったが最後に広島平和記念公園の碑に刻まれている歌を挙げて終わりたい。

大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり 正田篠枝

1 件のコメント:

  1. 大津留公彦です。twitterでのコメント有り難うございました。
    震災歌集については前に書いていましたのでお読み下さい。
    歌人にはかなり衝撃を与えました。
    http://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-e5cc.html

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